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「ミトノート」は、茨城県の県都である水戸市の魅力を伝える冊子です。水戸市民が誇りに思う「場所」や「もの」「こと」を1号につき、ひとつ、特集のテーマとして取り上げ、そこにかかわる市民の暮らしぶりや考え方を通じて、水戸の良さをより深く伝えていきます。

第5号となる今号では、「水戸の武道」をテーマにお届けします。

(表紙写真…小泉慶嗣 平成29年1月2日、水戸東武館の寒稽古風景)

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江戸時代、徳川御三家として諸藩を代表する大藩であった水戸には、当時の武道が今も伝わります。水戸藩の藩校「弘道館」に千葉周作が伝えた「北辰一刀流」、同じく弘道館で教授された一刀必殺の「新田宮流抜刀術」、〝水の都〟の環境のもとで発達を遂げた「水府流水術」、そして、農民の自衛の手段として広まった「田谷の棒術」など。これらの武道・武術に脈々と受け継がれる〝水戸の精神〟に迫ります。

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【北辰一刀流】水戸東武館

剣の道は、人の道。一瞬一瞬の命の道。

一度途絶えかけた剣術を10年の歳月をかけて現代に復興させた、水戸の武道家たちの終わりなきロマンと執念。

水戸藩の藩校であった「弘道館」から徒歩3分ほどのところにある「水戸東武館」。弘道館の剣術師範であった小澤寅吉が明治7年(1874年)に創設した、143年の歴史をもつこの道場には、水戸市の無形文化財に指定される2つの古武道が伝わる。そのうちのひとつが、幕末に千葉周作が創始した「北辰一刀流」だ。その復興と保存を牽引する髙山陽好さんに話を聞いた。

 水戸駅から歩いて5分ほどの丘陵にある水戸市三の丸地区は、その名が示すとおりかつて水戸徳川家の居城であった水戸城が建っていたところだ。白壁塀で美しく整備された「三の丸歴史ロード」を進むと、国内最大の藩校であった「弘道館」(国指定特別史跡)があり、その周囲には、大手橋や水戸城空堀跡などの歴史的遺構が残る。周辺は文教地区に指定され小学校から高校まで5校が集まるが、校舎などにも城址の雰囲気に馴染む意匠が取り入れられ、歴史薫る閑静な散策エリアを形成している。
 そのエリアの北西の角に、143年の伝統を持つ道場「水戸東武館」(以下、東武館)がある。明治7年(1874年)に、弘道館の武道師範を務めていた小澤寅吉によって創設されたこの道場には、水戸藩と縁の深かった幕末の剣術家、千葉周作が創始し、弘道館で教授したという「北辰一刀流」が伝わる。
 一時期伝承が途絶えかけたその北辰一刀流を、平成14年ごろから東武館の仲間とともに本格的に研究し直し、現在も指導と保存のために力を尽くしているのが、剣道教士八段を有し、茨城県剣道連盟会長を務める剣豪、髙山陽好さんだ。180センチを超える長身、相手を射ぬくような視線、そして指導中の鋭い語気や気迫──まさに絵にかいたような剣術師範の佇まいの人物である。

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一子相伝を解消し、有志で研究に研究を重ねた 

 初秋のある日、稽古前の髙山さんを東武館に訪ね、北辰一刀流についての話を聞いた。稽古を離れると表情は少し柔和になる。
 「私は、昭和28年(1953年)、当時館長だった小澤武さんが空襲で焼けた東武館を再建した際、募集した少年剣道部の第一期生として東武館に入館しました。9歳のときです」
 第四代館長の小澤武は、北辰一刀流の継承に熱心で、宗家として日本古武道協会に参加し、妻喜代子(第五代館長)とともに行う演武はいろいろな機会に披露された。が、当時は一子相伝(直弟子のひとりにだけ技を伝えること)の形を取っていたため、髙山さん自身が北辰一刀流を実践する機会はなかった。
 続く第六代館長の宮本忠彦の時代には、北辰一刀流の相伝は積極的には行われず、実質的に一時中断した状況に陥る。
 その状況を憂いた現館長(第七代)の小澤智が、今から15年ほど前、一子相伝を解消する決断を下し、当時職場を定年退職し、師範として再び東武館と密な関係を持ち始めていた髙山さんに白羽の矢を立てる。
 「現在の館長が、『せっかく東武館に伝わる技なのだから、すたれさせてはもったいない。皆で勉強していけるようにしたらよいんじゃないか』と声をかけてくれまして。私も、いつかはやってみたいという気持ちを持っていましたから、そういうことなら一緒にやりましょうと、グループで研究を始めたんです」
 特に、数年後、髙山さんが自宅に板の間の〝ミニ道場〟を作ったことで、研究が一気に加速していく。
 「上田さん(現事務局長)をはじめとして、5人くらいが、週に2、3回集まってね。狭い板の間で膝を突き合わせるようにして、皆で研究を進めていったんです」
 北辰一刀流の形は、太刀組(太刀対太刀)が43本、小太刀組(小太刀対太刀)が5本、相小太刀組(小太刀対小太刀)が6本、そして刃引きという真剣を使うものが11本ある。この全65本の形をすべて解明し再現するためには、当然相応の資料が必要だった。
 「武先生(第四代館長)が、千葉周作の教えを自分なりに解釈してまとめたメモのようなものがありました。それと、ビデオが残っていたんです。もっとも基本となる太刀組18本の。武先生と奥さんの演武を収めた貴重なものです。それから、東武館に伝わる伝書があった。初代館長の小澤寅吉、第二代の一郎、第三代の豊吉の教えが言葉になっているもの。そして、千葉家で出している供述書も手に入った。千葉周作が書いたものではないが、その教えを口伝したと言われているものです。そういったものを一つひとつ読み解きながら、我々の手で技の形を〝絵〟に起こして解明していったんです」

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 探求の対象は北辰一刀流に留まらず、その元となった小野派一刀流にも及ぶ。神奈川県にある小野派一刀流中西派の合宿に参加し、北辰一刀流に通底するものを見極めていった。
 こうしてでき得る限りの資料を入手し、挑んだ流派の再興。すべての技の再現が完了したのは、研究を始めてから10年後のことだった。
 「時間はかかりましたねえ。これはもう本当に本気の仕事といえるものでした」
 途中、壁にぶつかることももちろんあった。
 「ひょっとしたら千葉周作がやっていたものと違う解釈をしているんじゃないかという不安にかられることは、正直ありました。だけど、武道にはね、守破離というのがある」
 師の教えを〝守〟り、やがて守りの殻を〝破〟り、最後には、あらゆる修行を経た上で、師から〝離〟れて自在になるという教えだ。
 「我々も、ここまで長い時をかけてそれこそ真剣に向き合ってきたのだから、少し違うところがあったとしても、それはそれでいいのかもしれないという心境に今はなっています」

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切り落としを繰り返すうち、四戒が消え、無の境地に至る

 研究が進み、完成した形の演武を人前で披露するようになると、予想以上に高い評価を受けることが多かった。このことは髙山さんを大いに勇気づけた。そして、せっかく復興した技を二度とすたれさせないため、伝承の方法も千葉周作に倣って制定した。
 「そう、あの方は偉くてね。北辰一刀流の前に所属していた小野派一刀流には、階級が10近くあり、昇進ごとにお金を納める方式だった。それを、千葉周作はもっと流派が発展しやすくなるようにと、北辰一刀流ではわずか3つの位に絞ったんです。それを我々も引き継いでいます」
 師範の前で演武して、太刀組18本がきちんとできれば「初目録」。太刀組43本が全部できるようになれば「中目録免許」。そして最後、65本すべてをマスターすれば「大目録皆伝」。
 「中目録免許まで取得すれば、人に教えてもよいことにしています。現在は私が大目録皆伝を持ち、上田事務局長をはじめとする3名が中目録免許。初目録が12名。ほかにまだ何も持ってない中学生たちが9名。そういった人たちで保存会をつくって毎週土曜に稽古を続けています」
 すべての技をよみがえらせた今、髙山さんがあらためて感じる北辰一刀流の一番の特徴とはなんだろう。
 「それは、やはり1本目の『一ツ勝』という技に尽きます。いわゆる『切り落とし』です。相手が正面から打ちこんでくる瞬間、その刀を正面から切り落とす技。怖いと思ったらできない。恐れる気持ちを断ち切らないとできない。形とはいえ、打つときは真剣に打つ、まさに相手の頭を割るように、躊躇なく。そうでないとできません」
 切り落としを何度も繰り返すうち、剣道でいう四戒、すなわち邪念として戒めている驚(驚く)、懼(恐れる)、疑(疑う)、惑(惑う)という心の動きが消え、やがて無の境地に至るという。
 「それは、先人が命をかけて編み出した技だからこそだと思うんですね。古武道にはそういう要素が色濃く残ります。稽古を続けるうちに、それに気づくことができます」
 もし時空を自由に飛び越えることができるとしたら、髙山さんも千葉周作らが生きた幕末の時代に生きてみたかったと思うだろうか。

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 「いやいや、それは正直思わないですよ(笑)。今の時代で良かったです。千葉周作たちが命がけで編み出した技があるのだから、我々はそれを懸命に学ぶ。それで十分でしょう(笑)」
 このときばかりは相好を崩した。
 「自分が愛する水戸東武館に伝承されている古流を掘り起こすことに携われたのは、本当に幸せなこと。このように取材を受けて、水戸にこういう魅力のある古武道が存在するということを広く伝えていくことができれば、さらにやりがいにつながりますね」
 この先も持てる力のすべてを尽くして、髙山さんは北辰一刀流を伝承していく。自身の命の続く限り──そう形容したとしても、大げさという人はひとりもいないだろう。

(文…笠井峰子 │ 撮影…小泉慶嗣)

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 毎週土曜日に水戸東武館(以下、東武館)で行われている北辰一刀流の稽古で、ひと際目を引く女性の姿がある。
 杉田茉奈美さんは、水戸の高校の音楽科から東京の音楽大学へと進み、現在は地元水戸で音楽の講師をする人物。複数の教室でクラシックピアノを教え、高校の音楽の非常勤講師も務める忙しい日々を過ごしながら、北辰一刀流の稽古に通い、その習得に精を出す。
 じつは、10歳のころから東武館に通い剣道の稽古に励んでいたという杉田さん。だが、都内の音楽大学へと進んでからは、東武館に行くことも少なくなり、疎遠になっていた。
 大学卒業後に水戸に戻り、北辰一刀流に引き寄せられるように再び東武館に通い始めたのが23歳のとき。剣道ほどの装備が必要なく、道着と木刀一本でできることが背中を押した。
 いざ始めてみると、剣道とはまた異なる魅力に満ちていて、一気に引き込まれたという。
 「剣道は声を出しますが、北辰一刀流は無言です。形によるふたりのやりとりの中でメリハリをつけていく。そこが難しいし、魅力ですね。言葉を使わずに気迫を込め、表現するところは音楽とも通じるように思います」

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集中して臨んだ鹿島神宮での演武

 平成28年の10月。杉田さんは、鹿島神宮で行われる日本武道館と日本古武道協会が主催する「日本古武道交流演武大会」の演武者に抜擢された。この大会は、日本全国から36もの古武道の流派が、武道の神様を祀る鹿島神宮に集まり、本殿前で次々と技を披露するというもの。杉田さんにとっては東武館以外の場で行う初めての演武となる。
 大会1か月前から受太刀(打突を受ける側)を務める中目録免許の兼子勝喜さんと予定を合わせ、平日にもできる限り稽古をして備えた。
 そうして迎えた大会前日。鹿島神宮の特設会場でのリハーサルに臨み、まずはひと通り無難にこなす。だが、夜になり髙山先生たちと食事をする段になると、先生方から本音が漏れ始めた。
 「少しお酒が入ったこともあってか、細かな点についてお叱りの言葉が出てきたんです。これはまずいと思いました。自分だけの問題ならいいのですが、北辰一刀流、東武館に迷惑をかけることになってはいけないと」
 本番は明日。短い時間にできることをやるしかない。心を澄ませて先生方からの注意を反芻し改善のイメージをひたすら描く。当日も、早朝から演武の直前まで兼子さんと確認を重ね、いよいよ本番の舞台へ。

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 「本番はもう無心で臨みました。無心というか、自分が気をつけるべきことだけが頭にある状態で。すごく集中できたのだと思います」
 結果、杉田さんの演武は、稽古やリハーサル時とは比較にならないほどの気迫と躍動感を放ち、36流派の演武の中でも際立つものとなった。その出来栄えは、前夜厳しい言葉を伝えた先生たちも一様に目を細め、興奮気味に賛辞を贈るほどだった。
 大役を無事に終えた杉田さん。現在もピアノ講師などの職を忙しく続けながら、土曜日には変わらず北辰一刀流の修行に励んでいる。
 「今はもう北辰一刀流が日常の一部のようで、稽古が楽しみで仕方がないです。仕事で遅れてしまうときも、たとえ30分でも行って稽古しようと思いますね」
 東武館で北辰一刀流を学ぶことは、人として成長する場。生きる指針を得る場だという。
 「ピアノ教室や学校の音楽の授業でも、〝人間として〟の指導をしていきたいので、自分が北辰一刀流から学んだことは、自然に子どもや生徒たちに伝えるようにしています」
 北辰一刀流とクラシックピアノ。対極にあるように思えるものが、互いに共鳴しながら杉田さんの中で自然に存在し続ける。杉田さんのピアノの演奏は未聴だが、扱うものが木刀から楽器にかわっても、一瞬一瞬に込められる気迫、放たれる輝きは、少しも変わらないはずだ。

(文…笠井峰子 │ 撮影…小泉慶嗣)

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【新田宮流抜刀術】水戸東武館

門外不出、水戸藩秘伝の「先先の先」。

文字通り〝火花〟が散るほどの激しい秘技を伝承する、選ばれし者ゆえの雄心と憂心。

水戸東武館に伝わる「新田宮流抜刀術」は、水戸藩士の和田平助によって考案された居合の流派。その特徴は一にも二にも相手の「先」を取る凄まじい勢いにある。演武者の気合いが乗ったときには、ぶつかり合った真剣と真剣から火花が出るというほどの激しさだ。伝承者であり、水戸東武館の事務局長も務める上田忠夫さんに話を聞いた。

 伝統ある道場、水戸東武館(以下、東武館)には、北辰一刀流のほかにもうひとつ、「新田宮流抜刀術」という、江戸時代から水戸藩だけに伝わる秘伝の居合の流派がある。
 これは、水戸藩第二代藩主徳川光圀公の時代に、水戸藩士であり剣術の名手であった和田平助が、「田宮流」という居合をもとに完成させたもの。その特徴は、「先先の先」。とにかく相手に先んじて凄まじい速さで刀を抜き、倒す。一刀必殺、藩外不出の秘技として、水戸藩藩校の弘道館でも限られた者だけに教授されていたという。
 明治7年(1874年)、弘道館で剣術の指導をしていた小澤寅吉が私費で「水戸東武館」を創設してからは、現在までのおよそ143年間、歴代館長あるいはその直弟子のふたりのみがこの技を相伝してきた。 

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22歳で唐突に始めた剣道が、その後の人生を変えた

 平成29年の現在、新田宮流抜刀術を担うひとりが、上田忠夫さんだ。事務局長として東武館運営の一端を担う上田さんだが、東武館と関わったのはだいぶ遅かったという。
 「私は東武館に22歳のときに入ったんです。それまでは剣道もやっていなかった。憧れはあったのですが、まったく縁がなかった」
 上田さんの奥さんがたまたま職場で、当時東武館の事務局長を務めていた師範の評判を耳にしたことがきっかけで、上田さんは「唐突に」東武館へ赴き、その師範に「剣道をやりたい」と直訴したのだという。
 「いま思い返してみても、なぜあのときそういう行動を取ったのか、自分でもよくわからないんですけどね」
 そのとき行動しなければ、その後50年以上も続く東武館との関係はもちろん、この新田宮流抜刀術の継承者になることもなかったのだから、運命とは不思議なものだ。
 以来、東武館に足しげく通うようになった上田さんは、それまでの時間を取り戻すかのように稽古に没頭し、1年で初段を取得するほどのめざましい上達を見せる。翌年には、東武館に居合道部が発足し、後に新田宮流抜刀術で上田さんの元に立つ(格上の立場で技を受ける)こととなる宮田忠幸さん(現東武館副館長)とともに居合の技術も高めていく。
 それから25年余り。剣道教士七段と居合道七段を保持するまでに腕前を上げた上田さんに、第六代の宮本館長が声をかけた。
 「新田宮は、第四代の小澤武館長によって、剣道七段と居合道五段以上を持つ者が継ぐことと決められていたんです。それで、宮本館長から〝新田宮を継ぐつもりがあるなら、やってみろ〟と言われましてね。もちろんいつかはやってみたい気持ちはありましたから、では、お願いしますと答えました」
 こうして、館長の立会いのもと、先に新田宮流抜刀術を継承していた宮田師範から直々に形の指導を受けることになった。

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すべては相手との気の交流全人格を通わせてこそ成り立つ

 新田宮流抜刀術の元になったのは、紀州の田宮流という居合だ。紀州の田宮流は「古田宮」と呼ばれ、それを学んだ水戸藩士の和田平助が考案したものが「新田宮」となった。
 余談になるが、幕末の「桜田門外の変」で彦根藩士が水戸浪士に襲われた場面は、紀州から彦根に伝わった「古田宮」と「新田宮」の対決だったとの話も東武館には伝わるそうだ。
 その「新田宮」の特徴は、前述したとおりの「先先の先」。上田さんが解説する。
 「ふつう、居合ではこちらから切るということはあり得ないんです。居合う、〝居〟ながらにして敵に〝合う(遭遇する)〟ことを想定しているので、居合は、相手が切りかかってきた場合にのみ対処する〝後の先〟なんです。ところが新田宮は、「先先の先」といって、相手が動く先を読む(先の先)よりもっと先、相手の心の先まで読んで仕掛ける。居合は、人を生かす剣、新田宮は、物騒だけれども、人を殺す剣なんでしょう」
 たしかに、狂気を感じさせるほどの激しい動きを目にすれば、それも納得がいく。演武とはいえ、使用するのは真剣だ。少しでも手元がくるえば、たいへんなことになる。

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 「そうです。ですから、非常に集中します。形とはいえ、狙ったところに一発で抜きつけるというのは本当に難しい。ひょっとするととんでもないところを切りつけてしまうのではという危惧は、つねに持っています。悪いことを考えると、身の毛がよだちます」
 あれほどの速さで刀を切り落とすことへの恐れは、何十年経ってもあると率直に話す。
 「怖いですよ、いまだに。でも、やりたくないと思うことはない。すべては呼吸なんです。相手と気を合わせることに尽きるんです」
 現在の相手の兼子勝喜さんとは、これからもっともっと気の交流を深めていくという。
 「宮田先生とは20年組んでやりましたから、それと比べれば、昨年始めた兼子さんとはこれからもっと深めていく必要があります。でも、私は彼と一緒に剣道も居合もやっていて、彼がどういう男かということは自分の中ではある程度つかんでいますから、そんなに難しいことはないです。やはり武道とか武術というのは、そういう全人格を交流させないと成り立たないところがあります」
 継承者に選ばれた者として、上田さん、兼子さんは次につなげる責務も負う。
 「そう、我々ふたりで満足していてもしょうがないので、これを早くなんとか次の世代に継承していくことを考えないといけない。やはり剣技が高い者でないと、行きつくところに行きつかない部分がある。高段者で継いでくれる者を探せるのが一番なのですが」
 しかし、剣道七段、居合道五段以上の資格を持つ者を探す間に、この武術が途絶えてしまっては元も子もない。
 「資格にこだわり過ぎると、この新田宮流は消えてしまうと思います。そこが非常に悩ましいところですね。とにかく適任者をなんとか我々で選んで、育てていくような形にしなければいけないです」
 最後に、6本ある新田宮流抜刀術の形で上田さんがもっとも好きなものを聞いてみた。
 「いちばん派手なのは、〝星昇〟という技です。刀と刀がガチーンとぶつかり合うんですが、そのときに火花が出るんです。出ないときもあるけれど、2人の真剣味が高いところで交わると出るのでしょう」
 そのようなとき、動きは激しいが、心は高揚するというより、むしろどんどん醒めていくのだという。

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 「冷静というのとは少し違う。気持ちは高揚しているけれども、その中にものすごく醒めたものがあるんです。覚醒というのでしょうかね。これは、新田宮に限らず、北辰一刀流でもそうですけれど、やっているときは、もう相手の目を見たきり、どこにも視線を動かさずにやりますから。ただただ相手の目の玉の動きを見据えて動くのみなんです」
 ふだんは知的で穏やかな笑みをたたえる事務局長だが、稽古となると、まさしく別人のような鋭さを眼に宿す。その迷いの一切ない厳しい目と心が、次にこの奥義を託すにふさわしい者を、やがて見極める。

(文…笠井峰子 │ 撮影…小泉慶嗣)

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【水戸東武館】

弘道館の「文武不岐」を体現する〝学舎〟。

民間道場の「水戸東武館」が、「全国選抜少年剣道錬成大会」を60年近くも主催し続けている理由

 「北辰一刀流」「新田宮流抜刀術」という江戸時代に創始された武道の流派を伝承しながら、水戸東武館(以下、東武館)は、現在、第七代の小澤智館長のもと、「剣道」「なぎなた」「居合道」を3つの柱として、それら日本の伝統文化を正しく後世に伝承するための修練の場として日々活動を続けている。
 中でも特に、少年剣道の名門道場として、東武館の名は日本全国に知られる。その理由は、全国の道場から少年剣士を集めて開催される「全国選抜少年剣道錬成大会」を、過去60年近くにわたり東武館が主催し続けているからだ。毎年春に行われるこの大会は〝水戸大会〟の愛称で、全国の少年剣士たちにとって憧れの舞台となっている。

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 一地方都市の民間道場が、なぜこれほど大規模な大会を半世紀以上も続けていられるのか。事務局長を務める上田忠夫さんに尋ねた。
 「東武館では昭和35年(1960年)から『全国選抜少年剣道錬成大会』を行っていますが、そもそも当時は少年剣道の全国大会というものが存在しなかったんです。少年の競いごとはだめだと文部省(当時)が禁止していた。しかし、全国の少年たちが腕を競う場をなんとかつくりたいと、第四代の小澤武館長は頭をひねり、『錬成』(心・技・体を鍛えること)という名称をつけ、試合ではなく〝審査会〟であるとした。そうしてようやく文部省の認可と後援をいただき、第1回大会を開催することができたんです」
 今では、全日本剣道連盟や日本武道館が主催する全国規模の少年の大会がいくつもあるが、そのどれもに「錬成」の名が入っているというから、〝水戸大会〟の影響力の大きさがわかる。
 さらに2年前の第56回大会からは「文部科学大臣杯」という冠も付与された。60年近い実績を上田事務局長が粘り強く訴え、獲得した最大級の称号だ。その効果もあって参加チーム数はここ数年いっそうの伸びを示し、平成29年開催の第58回大会には、史上最多の426チームが参加するという。上田さんが解説する。
 「やはり伝統というのは、一朝一夕にはできないもの。こつこつ積み上げてきた大会の歩みが、我々の一番の強みだと思います」
 第1回大会に出場した少年剣士たちが、今は60代になり、引率者となってまた大会に参加をする。
 「そういう輪が輪を広げて、〝水戸大会〟への、ひとつの想いが形成されているように思いますね」
 加えて、江戸時代の弘道館の教えの影響もあるかもしれないという。
 「かつて水戸の学問が長州や土佐や薩摩の人々に対して影響を及ぼしたり、あの吉田松陰も水戸に来て交流を持ったりした。そういう歴史の影響は今でも各地に残っていると思うんです。それが、東武館のイメージにも影響しているかもしれません」
 弘道館の理念のひとつであった「文武不岐」の教えは、そのまま東武館の創設の精神として今日まで脈々と受け継がれている。東武館で少年剣道の稽古のあとに毎回唱和される、「勉強します 剣道します よい行いをします」の「三誓願」は、まさしく「文武不岐」を平易に言い換えたものだろう。

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 「三誓願は、まず、『勉強します』がきて、その次に『剣道します』『よい行いをします』が続く。つまり、剣道しかできない人間になるなということです。文と武を偏らずに学んでこそ、人間の成長に役立つ。東武館で行っていることはまさに『人間づくり』だと思っています。そういう東武館の精神に、全国の指導者たちも賛同してくれるのだと思います」

 平成29年1月2日。東武館新春の恒例行事、「寒稽古」を取材した。今号の表紙や目次の写真もそのときのものだ。夜が明ける前から道着姿の大人や子どもたちが続々と東武館に集まってくる。外は凍てつく寒さだが、道場の中は、師範と弟子がひしめき合い熱気に満ちる。この場にいる全員が、新しい年の始めの寒稽古を前に胸を高鳴らせ、瞳を輝かせている。
 やがて始まった掛り稽古では、横一列にそびえるように立つ師範たちに向かって、子どもたちが満身の力を込めて竹刀を振る。自分を全身で受けとめ、大きな力で跳ね返してくれる師を持つことの幸福感が、子どもたちの体からほとばしり出る。
 まさに生命が鼓動する瞬間。目の前の光景に、上田さんの「人間づくり」という言葉が何度も重なった。

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(文…笠井峰子 │ 撮影…小泉慶嗣)

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【髙山武道具】

剣道家垂涎の〝水戸の防具〟。

水戸東武館の激しい稽古が生んだ頑丈で美しい、総手作りの防具

 水戸東武館(以下、東武館)から西に3分ほど歩いたところにある、創業92年の「髙山武道具」。店内には少年用を中心に剣道具一式が整然と並ぶ。
 それら既製品とは別に、すべての工程を昔ながらの手作業で仕上げる武道具は、〝水戸の防具〟として、長年全国の剣道家たちの憧憬の的となってきた。
 現在の店主は、三代目の髙山能昌さん。剣道教士八段の腕前を持つ東武館の師範であり、「北辰一刀流」で紹介した髙山陽好さんの実兄だ。ふたりともよく似た容姿だが、お兄さんのほうが少し柔和な印象がある。
 髙山武道具の歴史は初代の森山繁雄さんから始まった。
 「当時、東武館の剣道の稽古はだいぶ荒かったようで、第二代の小澤一郎館長が『やわな防具では身がもたない、もっと頑丈な防具を作れ』と森山師匠に命じたそうです」
 東京での修行の後、東武館そばに開かれた「森山武道具」。やがて店は一番弟子だった能昌さんの父、長吉さんに引き継がれ、店の名も「髙山武道具」と改められた。

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 森山師匠から長吉さん、能昌さんへと受け継がれた防具は、硬くて頑丈。脳天を守る面ぶとん(頭用防具の布の部分)には、本綿と毛氈(獣毛をフェルト状に加工したもの)を山ほど詰め、それを長い針で一針一針刺しては叩き、糸を締め、薄く硬くしていく。さらに、華美ではないが細やかな刺繍が施され、頑丈であるのに凛とした美術品のごとき美しさを湛える。気の遠くなるような手間をかけた品が、剣豪たちを惹きつける。
 「親父は日本一の職人だったと思います。大きな剣道大会がテレビなどで放映されると、今も名だたる剣豪たちが、親父の防具や僕が手掛けたものを大切に使ってくれているのを目にします。見ればすぐにわかりますよ。その形や雲型の飾りに〝水戸〟の特徴がある。長く使っていただけるのは、うれしい限りです」

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 現在、店では能昌さんのふたりの子息が、父から受け継いだ技で顧客からのさまざまな注文に応えている。
 初心者の子どもが訪れれば、能昌さんがおおらかな笑顔で出迎える。
 「剣道愛好家が少しでも増えれば」
 繰り返すその言葉に、剣道を愛し敬う鷹揚な心があふれ出ていた。 

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(文…笠井峰子 │ 撮影…小泉慶嗣)

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【水府流水術】

水の都の叡智が生んだ水と和す術。

水戸藩の時代に編み出された、多様な型を持つ日本泳法に魅せられ、日本一を手に入れた23歳の内なる闘志。

その名が示す通り、「水」と大いに関わりあいながら発展を遂げてきた水戸には、武術としての「水府流水術」が伝わる。水戸藩第二代藩主徳川光圀公が、武士だけでなく庶民にも奨励したというこの「水府流水術」には、現代にも十分に通じる、水難から身を守るための知恵や技術が結集している。平成28年に日本泳法大会で優勝に輝いた関泰亨さんに話を聞き、この歴史ある泳法の多彩な技術と奥義に迫った。

 那珂川を臨む、水戸の地。古くは水府と呼ばれ、水と深く関わりながら発展してきたこの土地で生まれた武術、それが水府流水術だ。水面から顔を出して横向きのまま泳ぐ「伸し泳ぎ」を基本とした泳ぎの「型」は、横体のほか、平体、立体、飛込、潜水、浮身などに分かれ、種類は約180にも及ぶ。日本泳法の数ある流派の中でも、この型の数は群を抜いていて、水府流水術の大きな特徴のひとつとなっている。
 ちなみに、「日本泳法」とは、多くが江戸時代に体系化された日本古来の泳ぎ方のこと。着衣のままで泳ぐ、刀を持って泳ぐなど、実用本位で発祥した泳法を指し、現在全国で13の流派が日本水泳連盟に公認されている。武術として発達した日本泳法は、タイムを競い合う現代の競泳とは違い、いかに「水と和す」かが重要で、毎年開催される全国大会では、型の正確さや力強さ、風格などが競われる。

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スイミングスクールの時間が合わず、たまたま始めた水府流

 平成28年に開催された第61回日本泳法大会泳法競技男子の部で、見事優勝を果たしたのが、水府流水術協会の関泰亨さんだ。
 関さんが、水府流水術を始めたのは小学4年生のとき。喘息を改善するために幼稚園のころからスイミングスクールに通っていたが、時間が合わなくなり、その代わりにと母親が見つけてきたのが水府流水術の教室だった。
 「はじめて練習を見たときは、首を横に向けて泳ぐ、その体勢に驚きました。おもしろそうだと思ってやってみたら意外と難しくて、最初は首が痛くなったのを覚えています」
 それでも、体験したことのない泳ぎに挑戦するのはとても楽しかった。横向きで泳ぐ基本の「伸し」ができるようになると、早速、学校のプールの時間に友だちの前で泳いでみせた。
 「始めて2年目くらいからは、新しい型を覚える楽しさに夢中になりました。ちょうどそのころ、同年代の仲間が入会してきて、ライバルと競いあうという目標もできたんです」
 やがて、大会に出場するようになり、ジュニアクラス最後の年となる中学3年のときには、代表として表彰されるまでに腕を上げる。競技者として上を目指すやりがいが高まるとともに、水府流水術の歴史や伝統についての話も聞くようになり、泳法の背景にあるものにも興味を深めていった。

水戸市の充実した設備環境が近年の発展を大いに支えた

 徳川家康の泳ぎの流れを汲むといわれる水府流水術の起こりは、水戸藩初代藩主の徳川頼房公の時代。優れた水術の技量を持っていた頼房公のもと、鍛錬を目的としてさまざまな泳法が発達。第二代藩主光圀公の時代になると、水難事故から身を守るため、武士だけでなく庶民にも広めるよう奨励されたという。
 幕末の文政期、第九代藩主斉昭公による武芸流派統一事業の中、藩内の泳ぎを統合するかたちで「水府流」の名がつけられ、水戸藩の藩校であった「弘道館」の武術の一科目として定められた。その流派名と泳法は脈々と受け継がれ、現在は、水府流水術協会(昭和45年設立)によって、保存・伝承されている。

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 水府流水術協会の荒川伊望さんによると、協会設立と同じ年に建設された、水戸市水府町の「水戸市民プール」の存在が、現在の水府流水術の発展には不可欠だったという。
 「残念ながら東日本大震災で被災して、現在は屋内プールのみになってしまいましたが、以前は、屋外にも、幼児向けのプール、25メートルと50メートルプールが2面ずつ、さらに飛び込みプールがあり、合計7つのプールを持つ全国でも稀な充実した施設でした。水戸駅からも近く、毎年夏には多くの市民で賑わったものです。この恵まれた環境で、水戸市や水戸市スポーツ振興協会など、たくさんの方々からのご支援を受けながら、我々は存分に練習することができました。合宿所も備えられていて、合宿中には24時間練習することができたのです。うちの協会で40代以下の泳ぎ手が充実しているのは、この市民プールがあったからこそです」
 水府流水術の練習を支えてきた6つの屋外プールは閉鎖されてしまったが、現在も練習は屋内プールで継続されている。

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「水と和す」ことこそが、日本泳法の極意

 前述したとおり、水府流水術には約180もの泳法がある。日本一に輝く実力を持つ関さんでも、まだまだマスターしていない泳法がたくさんあるという。
 「研究会に参加すると、はじめて教わる泳法に出会うことも多いんです。『こんな泳ぎがあったんだ!』という型もあり、学んでも学んでも、まだまだ先がある。その楽しさが尽きないことも大きな魅力です」
 新しい泳ぎに出会い、自分のものにしていく楽しさ。上達の実感を得やすいことが、学び続けるモチベーションになっている。
 「型を覚えるコツは、先生の手や足の動きに合わせてひたすらついていくこと。それに気づいたのは、『早抜手』という型を教えてもらったときですね。指導者の樫村先生の手の動きに合わせることから始めたのですが、最初はとてもついていけなかったんです。何度も繰り返すうちに、自然と動作が身につき、同じペースで腕を抜けるようになった。今では『抜手』系の型が一番得意になりました」

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 先の全国大会でも、決勝ではこの「抜手」で逆転勝利を果たした関さん。
 「予選では、平泳ぎのような『平体』、横向きに泳ぐ『横体』、そして立ち泳ぎの『立体』が必須。僕はこの立体が苦手で、1位の選手に差をつけられてしまったんです。決勝は2種目を自分で選べるので、『片抜手一重伸』と、『小抜手』という型で泳ぎました。以前、力が入りすぎてしまって失敗した経験があったので、リラックスして、自分の泳ぎを心がけたのがよかったんだと思います」
 採点基準は、背中を水面より上に保って泳いでいるか、肩がぶれず泳ぎがなめらかで力強いか、など。審判員によっては、たとえば「ゆとりがない」といった理由で減点されることもある。タイムというわかりやすく絶対的な基準で順位が決まる競泳との大きな違いと難しさがここにある。
 「自分らしい泳ぎで、気負わず、のびのびと泳ぐことが大切なのだと思います」
 と関さん。荒川さんが言葉を継ぐ。
 「若いうちは力強い泳ぎを修練してほしいと思います。勢いのある泳ぎを鍛錬して身につけた人ほど、高齢になってから水に自然体で向き合い、風格のある泳ぎができますから」
 日本泳法の場合、メイン競技に出場できる24歳までの若い泳者には筋肉質の引き締まった身体の持ち主も多いが、それより上の指導者を目指す泳者は、年齢層もさまざまで、一般的な体型の人も多いという。年齢や体型に応じて力まずに水と一体となって泳ぐ、まさに「水と和す」ことこそが、日本泳法の、水府流水術の極意なのだ。

水府流水術は、自信を持って得意と言える唯一のもの

 水府流水術には、実用性に則して開発された型が多いものの、一方で、藩主に披露するための華やかさを重視した型もあるという。たとえば、両手を交互に大きく抜きあげる大抜手は、さながらシンクロナイズドスイミングのよう。ほかにも、手を後ろで縛り、両足も拘束された状態で泳ぐ型や、座禅を組んだまま浮く型、浮身の状態で書画を描く型など、パフォーマンスとして見応えのある型も多い。

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 中でも、模範演技などで伝統的に披露され、人気を博すのが、甲冑を着けて泳ぐ演武だ(P23の写真参照)。甲冑の重さは約20キロ。武術として発達した歴史を持つことをあらためて伝えるこの泳ぎは、競技大会のデモンストレーションなどで披露されるたび、大きな歓声を集める。荒川さんが解説する。
 「見た目に迫力があり、人気がありますが、日本泳法の特徴である着衣水泳が基礎になっています。この泳ぎをマスターしておけば、万が一池や川に落ちたときも、溺れずにすむ可能性が高い。光圀公が、泳ぎを知らない庶民の子どもが溺れたと聞いて『庶民にも広めよ』と説いたように、今の時代にも、水府流水術を普及させることは安全面で大きな意義があると考えています」
 ちなみに、現在この甲冑の演武をおもに担当するのが、関さんの〝師匠〟である樫村さんだ。〝弟子〟の関さんとしてはなんとしても後を継ぎたい想いが募るが、現在は別の練習仲間が有力候補となっている。
 「うーん、まだ完全に諦めてはいないですけれどね。水府流水術をやっているからには〝甲冑〟をやりたい気持ちは強いので」
 笑みを浮かべながらも、強い闘志をのぞかせる関さん。最後にあらためて、水府流水術とは何かを尋ねてみた。
 「間違いなく自分の中心です。テニス、習字、体操など、母や姉がやっていたことにいろいろと挑戦したけれど、どれも長続きしなかった。手が小さくて球技は苦手だし、足は速い方だけど一番になるほどじゃない。自信を持って得意と言えるものがなかったんです」
 そんな関さんが、水府流水術で日本一に輝いた。
 「そうです。一番になれたことで、自分の気持ちが変化したのを感じます。できなかった泳ぎができるようになる。練習した成果が認められて、一番になる。その自信が、今の自分の中心になっています」
 次の目標は、大会連覇を果たすこと。日本泳法の大会に出場できるのは24歳までのため、関さんに残されたのはあと2大会だ。さらに泳ぎに磨きをかけ、二連覇、三連覇を目指す。しかし、それで終わりではない。25歳からは、指導者として游士、練士、教士、範士を目指しての長い挑戦が待っている。
 「将来的には、普及活動や後輩の指導にも力を注いで、水府流水術の伝統を守り続けていきたいと思っています」
 力強く語って、関さんは精悍な顔つきをいっそう凛々しく引き締めた。

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(文…伊藤梢 │ 撮影…小泉慶嗣、松本美枝子[関さんインタビュー])

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【田谷の棒術】

田谷の地で守り継がれる自衛の武術。

武器を持てなかった農民たちの、決死の覚悟が生みだした技と道具。

水戸市の北部に位置する田谷町。古くは田谷村と呼ばれたこの地域に伝わる武術が「田谷の棒術」だ。武器を持つことを許されなかった農民たちの間に、自衛の手段として広まった武術。時代の流れとともにほとんどの地域では消滅してしまった伝統の灯を、田谷の地で守り続けている「杖友会」の皆さんに、棒術の魅力、伝統を守り続けることの苦難や喜びについて聞いた。

 田谷町は、那珂川にほど近く、平地が続く地形の恵みを受けて農村として栄えた地域。今ものどかな田園風景が広がるこの地に、「ハァー!」「ヤァー!」と力強い声が響く。五尺五寸(約167センチ)の棒を手に、木刀を持った相手と対峙しているのは「田谷の棒術」第十六代道場長の池田邦彦さんだ。
 決闘さながらの構図だが、その様子を見ていて気づくことがある。棒を手にした池田さんは、自分からは攻撃を仕掛けない。相手が木刀を振り下ろしてきたところを打ち落とす、槍に見立てた長竿で突いてきたところを払いのける。その度に発せられる気合いが、先ほどの声の正体だ。
 「棒術の基本は、武器を持たざるものが、太刀や槍を持った野武士や盗賊から身を守るための自衛手段。切りかかってこられた場合にどうかわすか、その形を磨いているんです」
 まるで悲鳴をあげているかのように鬼気迫る迫力で発せられる「声」も、相手を威圧するための大きな武器なのだという。
 田谷の棒術は正式名称を「無比流兵杖術」といい、その流祖は、関ヶ原の合戦にも出陣した黒田家家臣の槍の名人、佐々木哲斎徳久という人物であると保存会には伝わる。戦場において槍先を折られたものの、柄の部分のみで奮戦したことがきっかけとなって編み出されたのが杖術、すなわち棒術だ。
 田谷にこの武術が伝わったとされる天明3年(1783年)は、天明の飢饉による混乱の真っ只中。食糧を狙う野武士や盗賊の侵入を防ぐための自衛武術として広まり、水戸藩下の48か村をはじめ、現在の大洗町やひたちなか市の農民や漁民の間に広く伝承された。しかし、現代までその歴史が続いているのは田谷町とひたちなか市平磯の2地区のみ。じつは田谷の棒術も、20数年前にはほかの地域同様に消滅の危機に瀕していたという。当時を振り返り、池田さんが語る。
 「そのころ勤務していた水戸市役所の生涯学習課で、先輩職員が田谷の棒術のことを話してくれたんです。私は、地元の人間でありながらその存在すら知らなかった。地域の伝統を途絶えさせるわけにはいかないと、当時唯一の伝承者であった横田徳衛門さんに棒術を習い始めました」
 その後、地元の知人らに呼びかけて入門者を募り、平成6年に保存会として活動する「杖友会」を発足。平成11年には、横田さんから道場長を継承した。

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伝承はすべて口伝のため地域の風土が影響する

 棒術が戦闘や戦術に使われなくなった現代において、重要なのは形を伝承すること。そのため、技の披露は勝負を決める試合形式ではなく、演武として行われている。
 技について書かれている序目録に記されているのは、形の名称のみ。構えの姿勢などについての記述や図解は一切なく、伝承はすべて口伝によって行われてきた。それゆえに伝わる地域の風土が大きく影響し、先述した平磯の棒術は、もとは同じ流派であるにも関わらず、田谷のそれとは違った形へと変化していると池田さんは言う。
 「こちらは農村ですが、平磯は漁村。漁師は気性の激しい人が多いので、形も次第に荒々しいものになったという見解があります」
 最近では、横浜市の「兼相流」という流派から連絡があり、お互いの流派の技を披露し合い、研究を深める約束をしたと嬉しそうに話す池田さん。各地で独自の変化を遂げた棒術の歴史をひも解くことも、伝承者としての喜びのひとつだ。
 田谷に伝わる貴重な資料として一番に挙げられるのが、大巻物と呼ばれる入門者の名簿。230余年の間に入門した約800名の名がすべて記されている、直径20センチほどもある巻物だ。これまでに何度も紙が継ぎ足され、その長さを増してきた。もちろん、杖友会の皆さんの名前も記されている。その貴重な資料を慎重な手つきで広げながら、池田さんが解説してくれた。
 「最初に書かれているのは、『天罰起請文』。入門にあたり、流派の教えを守ることを誓うというものです。入門者はこの巻物に名前を記し、血判を押す。修練を重ねて術を習得した者は、血判部分を三角形に切り取り、それを酒と一緒に飲んで『判消し』となります。さらに精進して免許が与えられると、今度は判消しの穴を四角に切り取ります。昭和後期のあたりは判消しの跡がほとんどないので、入門したものの続かない人が多かったんでしょうね」

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小学生や女性にも魅力を伝える試み

 杖友会では入門者を随時受け入れ、その対象も地元民に限らず門戸を広く開いている。現在の入門者数は約30名だ。小学生のころに運動会で棒術の演武を観た記憶があるという小林勝利さん。祖父が免許皆伝を受け、その証である小巻物を所有しているという小沼孝雄さん。ふたりはともに田谷町の出身。一方、新聞記事をきっかけに興味を持って入門したという菊池崇さんや、水戸の郷土かるたで田谷の棒術を知ったという市川雄大さん、田尻諒さんのように、水戸市内のほかの地域、あるいはほかの市町村からの入門者も多い。
 地元の水戸市立国田義務教育学校では、郷土学習の一環として6年前から4年生の授業に棒術が取り入れられ、池田さんたちが指導に当たっている。これも地域の子どもたちに興味を持ってもらうための試みのひとつ。女人禁制の原則を解いたのも、入門者を増やして伝統を守り続けていくことが狙いだ。そこには、棒ひとつで身を守る護身術としての棒術を、より多くの人に習得してもらいたいとの願いが込められる。
 最近入門した山下さん親子は、部屋でゲームばかりしている息子を見かねたことが入門の動機。「形が覚えやすいので楽しく続けられます」と、父親の猛さんが庶民の武術ならではの魅力を語る一方で、息子の壱生くんは、「メンタルが強くなって前みたいにすぐ泣かなくなりました」と、棒術を通して自身の成長を実感している様子。
 「棒術には、スポーツとしての楽しさもあるんです。大声を発しながら棒を操る、練習のあとはいつも爽快な気分が味わえます。だからこそ多くの方に参加してほしいと願って活動を続けています」
 そう語る池田さんが何よりもこだわるのは、200年以上もこの田谷に受け継がれてきたというルーツだ。
 「地域の伝統はやはりこの地で受け継いでいくべきもの。市外から毎週熱心に通ってくれる門下生もいるのですが、免許を与えるのは田谷の人間に、というルールは守り続けていくつもりです」
 目下の願いは、地元田谷の若い人たちが、活動を継いでくれること。田谷に暮らす人から人へ、口伝によって受け継がれてきた、土着の、自衛のための武術。その伝統を、この先も絶やさず継承していくため、杖友会メンバーのひたむきな活動は続く。

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(文…伊藤梢 │ 撮影…小泉慶嗣)

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【弓道】水戸市立第二中学校・市毛弓具店

心を澄まし、心の真中の的を射る。

日本一の実力を持つ女性弓道家の、しなやかで伸びやかな心の軌道。

「的を射る」のほかにも「満を持す」「はずがない」「かけがえのない」*など、弓道を語源に持つ言葉は意外に多いという。そう聞けば、俄然この武道が身近に思えてくる。弓具店を営み、指導にも情熱を傾ける市毛道子さんを取材し、弓道の魅力を探った。

*満を持す:弓を目一杯に引き、矢が離れる機会を待つ状態
 はずがない:筈(はず)とは矢の端にある切り込みのこと
 かけがえのない:?(かけ)と呼ばれる手袋はほかに替えようがないこと

 三の丸歴史ロードの中に建つ水戸市立第二中学校(以下、水戸二中)は、瓦屋根と白壁を用いた和の趣あふれる校舎を持つ。
 澄んだ青空が広がる12月のとある土曜の朝。本格的な設備が整う弓道場では、指導をする市毛道子さんと弓道部部員の生徒たちが正座で向かいあい、稽古の始めの礼をしている。
 「今日も元気にのびのびと弓を引いてください」
 弓道教士七段で、かつて全日本弓道大会で1位に輝いた実力を持つ道子さんの、明るくきびきびとした声が道場内に気持ちよく響く。
 道子さんが、この部を指導するようになって16年。これまでに300人余りの生徒たちを教えてきたという。現在の部員は、45名。女子が団体で関東大会に出場するなどの成績を挙げていて、新入生の入部希望者も多い人気の部活となっている。
 礼が終わると、部員たちは一度弓道場の外に出て、巻藁(藁をまとめて作られた練習用の的)に向かい、2メートルほどの近距離から順番に矢を放ち始める。これはいわゆるウォーミングアップ。
 巻藁の稽古を終えると、道場に戻り、いよいよ、はるか先の的に向かって矢を放つ「射込み稽古」に入る。

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 弓を射る位置(射位)に入ってから弓を放つまでには、「射法八節」と呼ばれる一連の動作を行う。
 まず「足踏み」で正しい姿勢を取り、「胴造り」で弓を正面に据え、「弓構え」で右手を弦にかけ、的を見る。「打起こし」で弓矢を持った左右の拳を上にあげ、「引き分け」で弓を左右均等に引き分け、弓が天地左右に伸び合った状態で力をかけ続ける「会」の状態から、ポーンと矢を放つ「離れ」へ、そして、放った後もそのまま「残心」の姿勢を数秒保つ。
 28メートル先にある的の直径は36センチだ。稽古とはいえ、射位に入り、射法八節の動作をするたび、生徒たちの心がきりきりと引き締まっていくのが手に取るように伝わる。
 道子さんは、そんな生徒たちの精神の集中具合も見極めながら、体の形を修正しつつ声をかける。
 「親指よ、親指を意識して」
 「背筋を伸ばして、肩を楽にして」
 「いいね、いいね!」
 生徒が矢を放つと、自らの気合いも乗せるようにして行方を見つめる。
 そんな道子さんの指導ぶりについて、部長を務めるロッシ太郎くん(2年)はこう語る。
 「姿勢の調整や離れのタイミングを先生の言った通りに直すと、いつも本当に的に当たるようになるんです」 副部長の澤渡雪那さん(2年)にとっては憧れてやまない存在だ。
 「以前、大会で先生が〝矢渡し〟という儀式をされたのですが、本当に美しく、見とれてしまいました」
 じつは、道子さんの孫の市毛拓海くん(1年)も部に所属している。
 「学校でも家でも基本的には変わらず明るく優しいです。弓道をしている姿はかっこいいなと思います」

結婚して始めた弓道で日本一に輝くまで

 水戸二中での指導を終え、道子さんが戻った先は「市毛弓具店」。夫の孝治さん、長男の克哉さんと営むこの弓具店は、大正9年(1920年)創業の老舗。代々受け継いだ手法で矢を一本一本精魂込めて作り続けている。
 道子さんが、孝治さんと結婚したのは25歳のとき。孝治さんは次男だったが、兄が急逝したため二代目として店を継ぐことになった。
 突如弓具店の嫁となった道子さん。弓道はそれまでまったく未知の世界だったが、店頭に立ってお客さまに弓具の説明をするためには、自分が実際に使ってみなければという思いから、弓道を習い始める。
 「近くの道場で真剣に稽古する男性の姿を見かけ、弓を引く姿は本当に美しく格好いいと思い、きちんと学ぼうと思いました。道具は店に全部揃っているわけだし、店に巻藁もあるから毎日練習できるので」
 だが、長男の克哉さんをはじめ4人の子宝に恵まれ、育児に追われてしばらく断念せざるを得なくなる。
 再び弓道を始めたのは、35歳のとき。10年間のブランクを埋めるように猛練習を積み、初段に合格。その後ひとつずつ昇段を重ね、17年をかけて七段にまで腕を上げる。気づけば国体の選手に選ばれるほどの実力を、道子さんは身につけていた。
 特に、昭和63年(1988年)、錬士六段のときに選手として最大のチャンスが訪れた。出場した第39回全日本弓道大会で順調に勝ち進み、決勝へ。自分より高段の女性との対戦となったが、見事に勝利を収め、道子さんはついに弓道日本一に輝いた。

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 「この試合のときのことは、今でもはっきりと覚えています。試合会場では、周りのことがまったく気にならないくらい集中力を高めることができたんです。自分の世界にスッと入り込むことがでました」
 今の言葉でいう「ゾーン」=極限の集中状態。そして、この状態は、瞬間的につくり上げるものではなく、試合の何時間も前、会場入りするところから、少しずつつくり上げていくものなのだという。
 「でも、わかっていても、必ずその状態になれるとは限らない。そこが難しいところなのですけれどね」
 大会前は猛練習の毎日だったが、義理の両親が子どもたちの世話や食事の準備を担当して、道子さんを快く元気に送り出し、応援してくれた。
 「家族の助けや励ましがなければここまで来れなかった。お陰で弓道を思う存分させてもらいました」

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家族の仲の良さは、まさに弓道の効能

 店の二代目であり、弓道錬士五段を持つ夫の孝治さんは、茨城県立水戸工業高校を卒業後、東京の青山学院大学の英文科に進むという、ちょっとユニークな経歴の持ち主。矢作りでは、工学の知識を生かして独自の道具を開発する一方、得意の英語を用いて、これまでに店を訪れた大勢の外国の人々に弓道を教えてきた。今でも店には英文で書かれた弓道の専門書などを置き、いつでも教えられるよう備えている。
 弓道の魅力を多くの人に伝えたいという両親の思いは、長男で三代目の克哉さんにもしっかりと受け継がれている。大手自動車メーカーを平成2年に退職後、父孝治さんの下で矢師の修業を始めた。篦(矢の軸)や羽根などの材料選び、糸の巻き方、羽根のはぎ方など、日々父の技を見て学んでいる。日本の伝統文化を後代に伝えていくためにインターネットも活用したいと、現在店のホームページでの販売を検討中だ。
 道子さんと孝治さんに、克哉さんと妻子を加えた総勢6人の家族は、とにかく明るい。道子さんが答える。
 「弓道をしているとストレスに感じるようなことも忘れられて、気持ちがすっきりする。真冬でも汗をかくほど、全身運動で健康にもいい。そのせいでしょうかね」
 弓道は、いくつになっても始められるのが魅力。しかし、その一方で、どれだけやってもこれでいいというところはないほど奥が深い。
 「射は十人十色。射品、射格とでもいうのでしょうか。日ごろの自分の状態が不思議と弓に表れる。当てっ気が出たり、欲が出たりすると、バランスが崩れ、途端に集中力が鈍ります。だから難しいんですよ。自分の世界に入る集中力をいかに持つか、内面の強さが試されるんです」
 これからも道子さんは、背筋をピンと伸ばして心を強く持ち、明るい笑顔で、弓道家としての高みを目指す。今年も八段取得に挑戦し、地域における弓道の指導と普及の活動にも変わらず力を注いでいく。
 「嫁ぎ先で必然に迫られて身につけた弓道が、これほど豊かなものを与えてくれることになるなんて、ね」
 まさしく〝かけがえのない〟人やこととの出会いを、数多く道子さんの人生にもたらした弓道。それがいかに素晴らしく豊穣な体験であったかは、道子さんから滔々とあふれ出る輝きが証明している。

(文…海藤和恵、笠井峰子 │ 撮影…小泉慶嗣)

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水戸の歴史をひも解く

水戸の藩校「弘道館」で実践された多彩なる文武の課程。

今号でご紹介した水戸の武道・武術のいくつかは、江戸時代に水戸藩の藩校「弘道館」において実際に教授されていたものです。第九代藩主徳川斉昭公が、「文武不岐」を掲げて創設した、日本最大規模の藩校「弘道館」。建学の精神を見事に体現していた当時の教育現場の様子を資料から辿ります。

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一、弘道館記―弘道館建学の精神

 「弘道館」は、水戸藩第九代藩主徳川斉昭公の手によって天保12年(1841年)に創設された藩校です。当時の敷地は約10・5ヘクタールあり、藩校として全国一の規模でした。
 弘道館建学の精神は「弘道館記」としてまとめられ、敷地内にある「八卦堂」に斉昭公の書で刻まれた石碑として納められています。また、その石碑の拓本(右ページ写真)は、弘道館の中で特に重要な場である「正庁正席の間」の床の間に掲げられています。
 今号の「水戸東武館」の記事で取り上げた「文武不岐」の言葉は、その「弘道館記」の中に記されています。
 学問と武芸はわかれず一体のものであることを示した言葉で、その言葉の通り、学問では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武芸では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など、文武ともに多彩な科目が教えられていました。
 施設も科目ごとに整備され、弘道館はさしずめ、現在でいう総合大学のような教育の場でした。
 さらに、敷地内の聖域と呼ばれる場には、「神儒一致」の教義にもとづき、儒学の祖、孔子を祀る「孔子廟」が学問を学ぶ「文館」側に、鹿島神宮から分霊された武の神様、武甕槌命を祀る「鹿島神社」が武芸を学ぶ「武館」側に配され、敷地中央には弘道館記碑を納めた「八卦堂」が建てられました。学生たちが文武習得に真摯に向き合うよう、施設の配置にも心を砕いた斉昭公の教育に対する熱意が感じとれます。
 ここで育まれた思想が、吉田松陰や西郷隆盛など多くの幕末の志士にも大きな影響を与え、後に明治維新の原動力へとつながっていきました。
 その後、幕末の動乱期を経て、明治5年(1872年)の「学制」発布により、弘道館は閉鎖され、一時は県庁舎などとして使用されます。
 建物としては、残念ながら、幕末の藩内抗争で文館・武館・医学館などを、太平洋戦争時の空襲により八卦堂・鹿島神社・孔子廟など(現在は復元)を失いました。しかし、幾度もの戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年(1964年)に国の重要文化財に指定され、約3・4ヘクタールの区域が「旧弘道館」として国の特別史跡となっています。
 平成23年の東日本大震災においても大きく被災しましたが、3年をかけた調査研究と復旧工事により、格調高い佇まいを取り戻し、平成26年から全面公開を再開しています。
 水戸で斉昭公が手がけた施設といえば「偕楽園」が有名ですが、この弘道館と偕楽園は、斉昭公が「一張一弛」の精神のもとに開設した一対の施設です。弘道館は学問と武芸の習得に気を張って励む場、一方、偕楽園は楽しみながら心を弛め、休養する場としてつくられました。


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二、正庁と対試場―武芸の試験場

 弘道館内部に掲示されている資料に「弘道館全図」があります。当時の弘道館の詳細な平面図を模写したもので、今号の前半で紹介している「水戸東武館」の第二代館長だった小澤一郎氏が明治33年(1900年)に寄贈したものです。図の右下には署名と「元水戸藩士」の印判が見てとれます。
 先に掲げた図は、その「弘道館全図」をもとに、施設名をわかりやすく表示し色分けを施したものです。この図を見ると、当時の弘道館内のつくりがよくわかります。
 正庁の右手、現在は梅林となっている場所には、「文館」が配置されていました。反対側、正庁の左手の現在水戸市立三の丸小学校が建つあたりには、3棟からなる「武館」と、「医学館」、「天文台」がありました。奥に進むと、現在茨城県立図書館となっている場所には「厩」があり、その右手、現在茨城県三の丸庁舎(旧県庁舎)がある場所は、調練場および馬場となっていました。
 この充実した学び舎で、水戸藩士とその子弟たち、その数およそ千人が、学問と武芸の習得に精を出しました(登館日数は藩士の身分によって15日間、12日間、10日間、8日間と決められていました)。
 彼らを指導する師範の数は約100人、そのほか武館には、師範を補助する「手添え」という人たちが100~150名ほどいたようです。
 弘道館では、「朝文夕武の法」と称して、午前は文館で学問を修め、午後は武館で武術を修練することが日課とされました。成績も文と武の総合評価によって判断されていました。ちなみに授業料は無料でした。

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 上の写真は、屋外の「対試場」と呼ばれる場所から正庁を臨んだものです。当時は、正庁正席の間に藩主が臨席し、この対試場で行われる武術の試験などをご覧になりました。
 弘道館の入学年齢は15歳で、卒業はなく、40歳以上の者は登館が免除になりましたが、学びたい者はその後も学ぶことができ、生涯学習のような制度が敷かれていたようです。
 現在の弘道館の敷地(鹿島神社を含む)は当時の3分の1弱となりましたが、藩校の敷地跡は今も茨城県三の丸庁舎や県立図書館、小・中・高校などが集まる文教地区に指定されており、江戸時代から現在に至るまで、この地が水戸の行政や学問・教育の中心となってきたことが、下の鳥瞰写真から見てとれます。

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三、弘道館武術伝系―武芸41派の伝承の記録

 弘道館創設以前の水戸藩には84もの武芸道場があったようですが、弘道館に採用された流派はそのうちの41流派でした。弘道館創設にあたり、流派名が異なっていても実質が同様である流派には統合が命じられ、また、斉昭公が考案した騎砲(騎兵隊が使用することを想定した砲)の神発流や薙刀の常山流、斉昭公自身が命名した剣術の水府流などが採用されるなど、武芸教育にも斉昭公の意図が投影されていたといいます。
 これら41の武芸の実技訓練が、前述した弘道館内の武館、弓砲場、馬場や調連場で繰り広げられていたわけです。
 水戸徳川家伝来の品を所蔵する「徳川ミュージアム」には、このような弘道館の武芸教育を記録した貴重な資料が残されています。
 「弘道館武術伝系」という上下巻からなる書物(現在は非公開)で、先に掲げた写真が、上巻の表紙と目次を写したものです。今号で紹介している「北辰一刀流」「新田宮流」「水府流水術」の名称が確認できます。
 それぞれの流派の頁を開くと、流祖や師範と思われる人物の名が並び、各流派がどの人物によって起こされ、伝承されていったかが克明に記録されています。また、ところどころに「破門」や「死去」「指南絶ス」などの文字も見え、伝承の際に起きたできごとが記されていることが見てとれます。

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 それにしても、弘道館の当時の施設配置や実践されていた教育の内容をこうして辿っていくと、その多彩さとスケール感、独自性にあらためて驚かされます。創設した斉昭公がいかに先進性と柔軟性に富んだ思考の持ち主だったかがわかります。
 弘道館を訪れる際には、ぜひ当時敷地だった場所にまで足を伸ばしてみることをお勧めします。江戸時代の活気みなぎる藩校の様子を思い浮かべながらの三の丸散策は、ひときわ趣あるひとときとなるはずです。

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(資料提供…弘道館事務所 │ 「弘道館武術伝系」「徳川ミュージアム外観」写真…徳川ミュージアム所蔵 c 徳川ミュージアム・イメージアーカイブ/ DNPartcom │ 構成…編集部)

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三の丸歴史ロードから歩いて行ける水戸のいいお店。

水戸市三の丸の周辺には、魅力ある店がたくさんあります!

 水戸城址のある三の丸地区には、弘道館のほかにも大手橋(再興)、薬医門、水戸東武館など歴史ある建造物が残り、また、近くには茨城県三の丸庁舎、水戸市水道低区配水塔などの近代洋風建築もあります。周辺の個性ある飲食店やギャラリーにも足を伸ばし、ぜひ、水戸散策をお楽しみください。


洋食屋 花きゃべつ

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愛される洋食×納豆のオリジナルメニュー

昭和55年(1980年)創業の洋食店。「洋食と喫茶」をコンセプトに、食事からコーヒーまで幅広いメニューを用意。人気は、笠間産減農薬米とこだわりの卵を使う「チーズハヤシオムライス」、特製納豆ソースが決め手の「洋風納豆ねばり丼」。震災の影響で移転したが、新店舗にもこれまで使用してきた椅子や照明を配し、昔の面影を残した。昼は日替わり790円~。夜は店主厳選のクラフトビールも。


五鐵 夢境庵 (ゴテツ ムキョウアン)

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奥久慈しゃもなど茨城自慢の旬の食材を

日本三大軍鶏のひとつである奥久慈しゃもをはじめ、アンコウ、常陸牛など茨城が誇る食材を使用した郷土料理に定評がある。品書きには親子丼、しゃも鍋、串焼き、から揚げなど、奥久慈しゃもの深い味わいが堪能できる料理のほかに、徳川光圀公が愛したレシピを再現した「黄門料理」などが並ぶ。旬の素材を盛り込んだ宴会メニューも充実。昼1000円~。全室個室。最大35人収容の広間も。


とらや書店

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茨城県地方史についての古書はこちらへ

昭和10年(1935年)創業の古書専門店。茨城県地方史に関する文献をはじめ、仏教、思想、哲学、歴史、書道、美術に関する書籍を扱う。『徳川斉昭書状』など江戸時代に遡る稀少な文献も。店内の一画で、書道や古い絵はがき、古地図などを随時展示。地方史に関する文献、自筆資料、古書画、版画、拓本、古文書、古写真、明治・大正の県内新聞などの買い取りに応じている。


ProCafe  (プロカフェ)

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さまざまな客層に愛される、満足の一杯

水戸駅北口近くにある喫茶店。世界のトップレベルとされる「カップ・オブ・エクセレンス」の称号を付与されたコーヒー豆を扱い、香り豊かな一杯を供する。カプチーノ、エスプレッソ、ラテはベーシックなものから黒糖や豆乳を使うアレンジ版もあり、種類の多さに目を見張る。食事は季節限定のグラタンやドリア、ランチが揃う。マスターお勧めのブレンドコーヒー280円。コーヒー豆も販売。


うどん家 ふ和ら (フワラ)

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スタイリッシュな空間で味わう手打ちうどん

コンクリート打ち放しの壁にタイルの床というスタイリッシュな空間で、品質の高い小麦粉だけを使った手打ちうどんが楽しめる。厳選材料で作るかえし、昆布とカツオのうま味を効かせたダシを合わせたつゆが、うどんの味を引き立てる。クリーミーな味わいの「ふ和ら特製カレーうどん」、あっさり系の「出汁で作ったカルボナーラうどん」が人気。夜は日本酒を中心にお酒も供する。


Spanish food&wine
marcador (マルカドール)

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本格スペイン料理をカジュアル&スマートに

「スペイン料理をもっと身近に」と、本場の味とともに明るくカジュアルな雰囲気も再現するスペインバル。お勧めの「イカスミのパエジャ」は、イカスミのコクとリゾットのような食感を大切にしたパエリア料理。お酒は、スペインのワインとビールをグラスで各6種類用意するほか、シェリー酒など豊富なラインナップ。日曜は、14時のオープンからお酒が楽しめるのも嬉しい。ランチは1000円前後。


食酒 アキヅ

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粋なイタリアンテイストの居酒屋

「イタリアン居酒屋」がコンセプト。鴨生ハム、鶏白レバーのパテなど500円均一のお酒に合う前菜が約20種のほか、パスタ、リゾット、魚介料理など日替わりのお勧め料理が揃う。伊産ワインは赤白各12種、スパークリング8種、グラス6種。イタリアのカクテルや蒸留酒のグラッパなども充実。テーブル、座敷、カウンターとその日の気分に合わせて過ごせる空間は宴会にも対応。


ニュー五一小屋 (ニューゴイチゴヤ)

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日替わり店主が守る名物「コの字カウンター」

日替わり店主が切り盛りし、料理も毎日変わるというユニークなスタイルで営業する居酒屋。40年以上にわたり地元で愛されながら一時閉店した「五一小屋」が、友人たちの助けによって「ニュー五一小屋」として再出発した。茨城の地酒を楽しみながら、コの字型のカウンターで客同士の話が弾む。店に立つ人の得意分野を生かし、毎日来ても飽きさせない魅力を打ち出す。稲里純米酒一合500円など。


茶の間

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“洋食”の初代と“和食”の二代目が腕を競う

「うまい料理と酒を気軽に」と昭和38年(1963年)に開店。洋食が得意だった店主と和食の修業をした二代目がそれぞれ持ち味を生かしたメニューを提供。茨城の銘柄豚肉ローズポークを使用したオリジナル「豚もやし鍋」は、ひとりでも楽しめる鍋料理として年間を通して人気。常陸牛を使用した「メンチカツ」も看板料理のひとつ。刺身など旬の味を盛り込む宴会コースは4~20人まで対応。


もつ焼 長兵衛 宮町店

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女性店主の人情味が旨みの隠し味

丸い提灯が目印のモツ焼きが人気の大衆酒場。店内は仕事帰りの常連客で活気に満ちる。看板料理のモツ焼きは、開店以来つぎ足しているという秘伝のタレが決め手。旨味たっぷりのモツ煮込みをはじめ酒の肴に格別な一品が揃う。モツ焼き1本80円。昭和51年(1976年)の開店以来「お客様が何より第一」をモットーにする店主・恭子さんの人情味のある人柄も訪れる客の心を和ませる。


梅香かふう (バイコウカフウ)

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地元の厳選素材を生かす優雅な懐石

「梅の都、水戸で心に残る味を」と、上質なおもてなしを心がける懐石料理店。趣のある庭に囲まれた旧家の佇まい、目にも華やかな料理は、優雅なひとときを演出する。熱海の名門料亭や札幌のホテルで経験を積んだ料理長が、毎朝仕入れる活魚、朝採り野菜、常陸牛などの厳選食材を自在に扱い、季節感のある物語を一皿に表現する。離れを含め全室個室で完全予約制。昼の膳3780円~。


konpei’s bar
UNBALANCE (アンバランス)

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料理もお酒も、じつは抜群のバランス感

水戸駅北口より徒歩5分、女性ひとりでも気軽に楽しめるバー。平成17年の開店以来、すべて手作りにこだわり、市場から仕入れる魚介や旬の野菜などを使った料理が黒板のメニューに並ぶ。「ガーリックトースト長いの」や「定番田舎風キッシュ」は人気のオリジナルメニュー。お酒はカクテル、ビール、ワイン、ウィスキー、焼酎、日本酒など幅広い品揃え。宴会などに利用できる2階フロアを備える。


うなぎ川桝 (カワマス)

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30分間待つ甲斐のあるふっくら軟らかな身

三代目が先代の味を受け継ぎ、暖簾を守る。注文を受けてから、割き・蒸し・焼きと出来上がるまで30分ほど。丁寧に仕上げたうなぎは、秘伝のタレと絡み、身がふっくらと軟らかい。一度蒲焼きにして酢の物にする「うざく」など一品料理も技がさえる。うな重(肝吸い付き)2700円~、コース6000円~。1階はテーブル席と小上がり、2階に個室、3階は宴会に利用できる広間を配する。


サザコーヒー 水戸駅店

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コロンビアに農園を持つこだわりコーヒー店

水戸駅に直結する駅ビル「エクセルみなみ」の正面口付近に70席を配するオープンな空間は、買い物客、学生、ビジネスマンたちで賑わう。テイクアウトができる「カステラショートケーキ」(550円)は、保存料や着色料などを使わず、奥久慈卵や県産イチゴなど地元の素材で作る人気商品。注文を受けてから淹れるコーヒーは430円~。季節限定のイチゴシェイクは都内でもブレイク。


水戸天狗納豆
笹沼五郎商店

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人気の「わらつと」をはじめ各種納豆が勢揃い

明治22年(1889年)、笹沼清左衛門氏が創業。水戸駅開業をきっかけに水戸の地に所縁のある天狗党から名づけた「天狗納豆」の商標で販売。小粒で粘りが強いと評判になり、水戸納豆を全国に広める元祖となった。わらの香りが風味を添える看板商品「わらつと納豆」をはじめ、そぼろ納豆、ほし納豆、大黒納豆などがある。隣接する展示館では、納豆の起源や歴史、納豆料理などを紹介。


周辺のお勧め観光スポット!
水戸城址二の丸展示館

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白塀に囲まれた校舎の一画にある展示館

平成24年に水戸市立第二中学校の敷地の一画に開設された展示館。この場所にはかつて「大日本史」編纂のために建てられた「水戸彰考館」があり、中学改築工事の際に行われた発掘調査で、瓦や建築木材、文房具などが大量に出土した。それらの発掘品や調査に関するパネルなどが展示される。東側には中学の弓道場が隣接し、内部からガラス越しに練習風景を眺めることもできる。


周辺のお勧め観光スポット!
茨城県立歴史館

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秋のいちょうまつりは水戸の風物詩のひとつ

県の歴史に関する「博物館」と「文書館」の機能を併せ持つ施設。常設展は、県内の歴史を民俗・考古・古代・中世・近代に分けて展示。徳川慶喜公ゆかりの一橋徳川家から寄贈された資料を展示する「一橋徳川家記念室」も併設する。明治14年(1881年)建設の旧水海道小学校本館(茨城県指定文化財)などが移築されている広大な庭園も人気。いちょう並木の美しさでも知られる。


周辺のお勧め観光スポット!
藝文ギャラリー

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茨城の作家の作品や創作活動を紹介

水戸に本店を置く常陽銀行の創立50周年記念事業として設立された公益財団法人「常陽藝文センター」が運営するギャラリー。芸術・文化を通じて潤いのある郷土づくり、豊かでゆとりのある暮しづくりに寄与することを目的に、郷土茨城に関わりのある芸術家の作品を積極的に展示する。また、同法人が運営する「常陽史料館」(備前町6-71/MAP)には、お金と銀行の歴史がわかる「貨幣ギャラリー」などもある。

(文…海藤和恵 │ 撮影…大谷健二)

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水戸市関連サイト・SNS

もっともっと水戸のことを知りたくなったら、こちらへどうぞ。さまざまなかたちで水戸の魅力を日々発信しています!

水戸の魅力を伝える
Webサイト「水戸の人々」

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水戸の街がもっと楽しめるWebサイト、好評更新中

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水戸の街のガイド役スマートフォンアプリ「水戸のこと」
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水戸の“おいしい!”を紹介する
「水戸みやげ」

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「水戸みやげ」は、水戸に来たからには食べるべき! お土産にはこれ! といったものを紹介しています。

水戸へのアクセス

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編集後記

今号では、子どもから80歳を超える方まで多くの武道家にお会いしました。皆さんに共通するのは姿勢の美しさです。日々の稽古で体幹を鍛えあげ、さらに、武道の教えにより磨かれた精神を反映しての、一本筋の通った美しさ。かねてから姿勢の美しさには強いあこがれを持ち、体幹トレーニングに励んだことのある私、武道に大いなる魅力を感じました。私のような不純な動機は別として、読者の皆さん、興味を感じたのなら、ぜひ、門戸をたたいてみてください。武道は生涯スポーツ、そう、始めるのに遅すぎるということはありません。(水戸市ミトノート担当)

 

ミトノート 第5号
発行日
平成29年3月
発行
水戸市
企画
みとの魅力発信課
編集・デザイン
有限会社平井情報デザイン室

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